歴史は変わる~私たちが学ばなかった「真田丸」の時代

一昨日(9月15日)は、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが行われた日でした。

大河ドラマ『真田丸』でも、まさに関ヶ原の戦い前後の情勢が描かれつつあります。

9月4日放送分で「犬伏の別れ」(真田信幸と昌幸・信繁がそれぞれ東軍・西軍につくことを決めた別れの場面)が取り上げられ、9月11日放送分ではいよいよ関ヶ原の前哨戦が描かれることになるだろう、と思いきや、上田城の戦いもほんのちょっと、関ヶ原の戦いに至っては「東軍、大勝利!」の一言で全力スルーされてしまったのには、驚きました。

このドラマに興味をもって以来、歴史研究者の方々のブログやTwitterをフォローしていますが、こんにちの日本の近世史の研究成果・到達点を垣間見ることができ、たいへん興味をそそられます。

私たちの学んだ知識とずいぶん違っていることも多いのです。以下に、その一部をご紹介したいと思います。

三成が逃げ込んだのは徳川屋敷ではない

まずは、このドラマの時代考証を手掛けられている、日本中世史研究者の丸島和洋先生(国文学研究資料館特定研究員)から。

秀吉の死後、文治派の石田三成らと、武断派の福島正則・加藤清正らとの対立が深まり、ついに正則ら七将は三成邸を襲撃するに至ります(七将襲撃事件)。このとき、追い詰められた三成は『政敵』である徳川家康の屋敷に逃げ込み、窮地を脱したとされていますが、これは俗説で、伏見城内の治部少輔丸(執務のために三成が与えられていた曲輪)に立て籠もったというのが史実のようです。

司馬遼太郎『関ヶ原』には、三成が「窮鳥懐に入らば猟師もこれを撃たず」とうそぶいて家康の屋敷に逃げ込むシーンがありましたので、私はこれが事実だと思っていました。

本名を書くことは敬意のあらわれだった

私たちが知っている昔の常識として、「偉い人の名前をストレートに呼ぶのは畏れ多いこと」というものがあります。

徳川光圀様とお呼びするのは畏れ多いので「水戸のご老公様」とお呼びする、というイメージですね。

では、秀吉の自筆遺言状の宛名に「いへやす(家康)」とあるのはどう理解したらよいでしょうか。

丸島和洋先生によれば、官名で呼ぶより本名で呼ぶほうがより丁寧な表現だったとのこと(出所:NHKオンライン)。

豊後の大友氏が秀吉の時代に作成した手紙の書き方マニュアルには「本名で呼んだり、書いたりすることが敬意を表す方法だ」と書いてあり、西日本を中心として、宛先に名前を書いた書状が結構な数で残されています。

戦国時代は本名を書くことが偉い人への敬意表現だったからなのではないでしょうか。ただ、だんだん「やっぱり本名を書いたり呼んだりするのは失礼なのではないか?」という疑問も生まれ始めていた、入れ替わりの時期でした。

秀吉としては、家康に対して最大級の敬意を払ったと考えられるということになりますね。

大谷吉継の病気はハンセン氏病ではない?

三成の盟友・大谷吉継はハンセン氏病で、崩れた顔を白い布で覆っていたとされてきました(「信長の野望」でも吉継のアイコンは顔を白い布で覆っていますね)。

しかし、丸島先生はその説をとっておられないようです。

有名な茶会でのエピソード(注)も、後世の創作なのかもしれません。

(注)吉継が口をつけた茶碗に(感染を恐れて)誰も口をつけようとせず、飲んだふりだけする中で、三成だけが平然と茶を飲み干した。これを見た吉継は「この男のためなら死んでもいい」と感激したという逸話。これも司馬遼太郎『関ヶ原』に出てきます。

関ヶ原布陣図はあてにならない?

関ヶ原布陣図

関ヶ原布陣図(出所:ウィキペディア)

南宮山に毛利勢。松尾山に小早川勢。そしてその麓には大谷勢…。私たちが知っている関ヶ原の各軍勢の布陣図は、じつは明治になってから岐阜県のお役人が「こうだったのではあるまいか?」と作ったもの、という説があります。

『新「関ヶ原合戦」論―定説を履す史上最大の戦いの真実』の著者である白峰旬先生(別府大学文学部史学科教授)は、論考「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈-なぜ大谷吉継だけが戦死したのか-」で、関ヶ原の戦いにおける徳川家康方、石田三成方双方の軍勢の布陣については、ゼロベースで考え直す必要があると述べておられます。

ちなみに、白峰先生が在籍されている別府大学史学科は、考古学の世界ではかねてから名門として知られ、関ヶ原古戦場の発掘調査でも主導的な立場にあることを付け加えておきます。

小早川秀秋は寝返っていない?

私自身の関ヶ原の合戦についての認識は、「石田勢・大谷勢・宇喜多勢が善戦するも、他の部隊は動かず。そこに小早川勢が突如裏切り、西軍は総崩れとなって敗れ去った」というものでした。

近年、この認識が大きく揺らぎつつあるようです。

その渦の中心に位置しているのが、歴史研究家・歴史マニアらの間で話題の書、高橋陽介氏の『一次史料にみる関ヶ原の戦い』(自費出版)です。

同書の中で高橋氏は、西軍がまず松尾山の小早川勢を攻撃に向かい、小早川と西軍が戦っている時に、東軍が攻めてきたという新説を唱えておられます。小早川秀秋は最初から東軍だったというのです。

これに対し、前出の丸島先生や白峰先生は、開戦とほぼ同時に小早川秀秋が裏切ったとされています。

両者のニュアンスは異なりますが、小早川秀秋は日和見など決め込んでいない、という認識で一致していることに注目すべきでしょう。

終わりに~過去に起こったこともこれから変わりうる

四百年も前に起こった既知の事実が変わりうる。

その認識を持ったのは、十年ほど前に読んだ新聞記事がきっかけでしょうか。内容は概略こうでした。

私たちが学校で、豊臣秀吉の代表的事績と習ったのは、太閤検地と刀狩りだったが、今日の認識は異なる。

秀吉の事績として特筆すべきは、まず惣無事令(秀吉の許可なく戦争をしてはならない、といういわば非戦命令)である。

一層興味が増したのは後になってから。くだんの惣無事令が(惣無事というキーワードが外交文書に目立つことは事実としても)「惣無事令」と呼ぶほどの実質を備えたものだったか、今日では疑問視する声が大きいようなのです。

ここに紹介した説も、今後変わっていく可能性があることはいうまでもありません。一面において、過去が未来に左右されるわけです。だからこそ面白いと私は思います。

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