憲法9条を考えるにあたって知っておいたほうがよいこと

安全保障関連法案を巡って、「戦争の放棄と戦力の不保持」を掲げる日本国憲法第9条をめぐる論議が活発化しています。

護憲派と改憲派、あるいは安全保障関連法案を支持する立場とこれを違憲だとする立場は、真っ向から対立していますが、それぞれの立場ともに、目指すところは「平和の維持と国民の生命・財産の保全」であることにかわりはない、と私自身は理解しています。

すなわち、法案支持派は、わが国の軍事的プレゼンスを高めることが外国による威嚇ひいては武力衝突を未然に防ぐと考え、一方法案不支持派は、これが諸外国との軍事的緊張を強めると同時に政府の暴走ひいては戦争のひきがねになりかねないと危惧しているのでしょう。

いずれの立場に立つにせよ、憲法9条を考えるに当っては、基礎的理解を要することがいくつかある気がします。雑駁ですが、以下に5項目を掲げました。

【その1】この法律は憲法違反だ!と訴えることができるケースは限られる

わが国では、具体的な訴訟事件を離れて、抽象的に法令等の違憲審査を行うシステム(抽象的違憲審査制)を採用していないため、「この法律は憲法違反だ!」と裁判所に訴えることができるのは、具体的な事件のなかで法令の違憲性が問題となるようなケースに限られます。

警察予備隊事件判決(最大判昭和27・10・8民集6巻9号783頁)は、裁判所の違憲審査権の行使が,司法権の行使に付随する場合に限られるとした。この付随的違憲審査制の建前を厳格に貫くならば、裁判所は、法律上の争訟が存在する場合にのみ、憲法判断を行うべきである。つまり、適用されるべき法令の規定が憲法に違反するかという形式で、裁判所の憲法判断は示されるものということになる。(池田眞朗編著『判例学習のAtoZ』有斐閣)

引用文中の「付随的違憲審査制」とは、具体的な訴訟事件を前提として、その解決に必要な限りにおいて違憲審査ができるシステムをいいます。従って、具体的な事件がないのに、この法令は憲法違反だ、と訴えても相手にされません。また、牽強付会に憲法をからめた事件を訴え出ても、憲法判断なしに本案判決が出せる場合、裁判所が憲法判断に踏み込むことはありません。

【その2】違憲判決の効力は、その事件限りのことである

違憲判決の効力に関し、ある事件において、実際に特定の法令が違憲とされた場合、この違憲とされた法令の効力はどうなるのか、ということが問題になります。

付随的違憲審査制の建前からすれば、憲法判断はあくまでその事件の解決の前提としてなされたにすぎないから、判決理由で示された違憲・合憲の結論は、その結論の理由付けとともに、その事件を超えた法的な拘束力をもたない、と考えられる〔個別的効力説(通説)〕。(池田眞朗編著『判例学習のAtoZ』有斐閣)

つまり、法律の規定を削除・修正できるのはあくまで国会だけで、ある事件において違憲無効とされた法律が、他の事件では有効なものとして適用される余地があるわけです。

【その3】憲法学者の多くは、自衛隊は憲法違反だと考えている

憲法第9条の解釈をめぐっては、9条2項全面放棄説(9条1項限定的放棄・2項全面放棄説)・「戦力=武力」説が憲法学会の通説です。

すなわち、憲法学者の多くは、9条1項の解釈では自衛戦争や制裁戦争は放棄されてないが、2項で一切の戦力の不保持と交戦権が否認された結果、自衛戦争・制裁戦争を含めてすべての戦争が放棄されたと解するのです。この見解の帰結として、自衛隊は憲法違反だということになります。

また、9条1項の解釈ですでにすべての戦争が放棄されている、と捉える類似説(9条1項全面放棄説)も有力ですが、自衛隊は憲法違反だという結論に変わりはありません。

9条1項全面放棄説に立たれる浦部法穂先生は、そもそも「日本国憲法上、自衛権があるかないかを論ずることは、無意味である。」と断じます。

もともと自衛権論理の出発点は、どこかが攻めてきたらどうするか、である。けれども、日本国憲法の平和主義は、そもそもそういう前提を捨てるところから出発しているのである。まさしく、「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(前文)のであって、どこかに悪い奴がいて攻めてくるかもしれないという不信の構造を前提にしてはいないのである。そうである以上、そのことを前提とした自衛権の有無を論ずることは、憲法の基本的立場に反することである。(浦部法穂『憲法学教室全訂第2版』日本評論社)

浦部先生のご見解は、今の平均的日本人からみると、理想論にすぎて、なかなか受け入れがたい内容なのではないでしょうか(注1)。しかしながら、浦部先生のおっしゃっていることは、憲法学会ではマイナーどころか、国民の自衛隊支持率が9割を超える今日においても、有力な考え方であり続けています。

ところで、ご存知の通り、わが国の政府は、1954年以降、9条1項限定的(部分的)放棄・2項全面放棄説および「戦力>自衛力」説をとってきました。

すなわち、自衛隊は近代戦争遂行能力のみならず「自衛のために必要な最小限度の実力」をこえる実力でもない(自衛隊は「自衛のために必要な最小限度の実力」のみを行使する)と解するわけです。

この点、司法試験の基本書として定評のある辻村みよ子先生の『憲法(第四版)』は、憲法9条の解釈としては、最終的に全面放棄説に到達する9条2項全面放棄説ないし9条1項全面放棄説が妥当であるとし、さらに9条1項限定的(部分的)放棄・2項全面放棄説および「戦力>自衛力」説について次のように断じています。

戦後の憲法政治における政府見解の変遷のなかで、日本の再軍備を正当化するための目的論的解釈として形成されたもので、解釈論上に無理があり、妥当ではないといえよう。

(注1)浦部先生の著書『憲法学教室全訂第2版』は、平易で読み物としてもおもしろく、日本国憲法について改めて学ぼうという方にはおすすめです。私が左翼的とも評される浦部先生の著書をすすめる理由は、著者の説に同意できるかどうかを読書対象の選択基準に置いていないからです。そして、自説をブラッシュアップするには、反対説との偏差をはかり、批判に応え、反批判を返すにしくはないと考えるからです。否、それを超えて、自説を疑うところからスタートしよう、というべきかもしれません。自説(あるいは自説だと自ら思い込んでいる考え方)に近い書物を読んで、我が意を得たりとか、痛快だとか、違う考え方をする人間はバカだとかしか思わないならば、最初から本など読む必要はないのではないかと、個人的には思います。

【その4】自衛隊を合憲とする長谷部先生は少数派である

6月4日の衆議院憲法審査会の参考人質疑で、早稲田大学の長谷部恭男教授や慶應義塾大学の小林節名誉教授が、法案について「憲法に違反している」と述べたことは記憶にあたらしいところです。長谷部教授を参考人招致した、自民党の船田元・衆院憲法審査会筆頭幹事は、党内でも厳しい立場に立たされ、自らも「人選ミス」を認めざるを得ませんでした。

しかしながら、船田氏が学会でも数少ない自衛隊合憲論者とみられる長谷部教授を選んだのには、理由があります。前項の通り、そもそも憲法学会で自衛隊合憲論をとる学者はきわめて少数だからです。

長谷部先生は、著書『憲法(第五版)』(新世社)のなかで、平和的生存権(注2)の発想に十分な理解を示しつつも、次のように述べます。私自身は、ここに長谷部先生の誠意を見る気がします。

一国のみが通常兵器を含めて軍備を全面的に放棄してしまえば、他国は軍縮へのインセンティヴを失ううえに、侵略によって得られる期待利得を増大させることになり、非武装によって生じた力の空白は、逆に周辺地域を含めて不安定化し、武力紛争の危険をもたらす危険がある。

冷戦が終結した後も、民族対立、宗教対立による地域紛争の危険は残っている。いかなる個人、民族も、他国を含めた周辺地域の平和を危うくしてまで軍備を全面放棄する権利は有していないのではなかろうか。逆のいい方をすると、通常兵器の一方的即時全廃を可能にするほど周辺諸国の国内政治および国際政治について楽観的でありうるのであれば、戦争の放棄や軍備の廃棄はさして重要な課題とはいえなくなるはずである。

現実には平和の維持も国民の生命・財産の保全も困難であるにもかかわらず、それでもなお軍備を全廃すべきであるとの主張の背後にあるのが、それが人としての「善き生き方」だからという前提があるのだとすれば、多元的な価値観が相剋するこの社会において、そうした特定の「善き生き方」をすべての国民に強いることは、日本国憲法の拠って立つ立憲主義と両立し難い。

(注2)「軍備によって国を防衛しようとすること自体が、国民の人権を侵害するため許されない」との主張を指す。

【その5】起草者はマニフェストにすぎないと思っていた

法律の意味内容は文言だけでは決められません。文理解釈(言葉の意味を解釈する)を基本に、論理解釈(法体系に矛盾を生じないように解釈する)、規定の趣旨目的を考慮する、立法者・起草者意思を探る、目的論的に解釈する(社会の実情を踏まえ、端的に現在においてどう解釈すべきかを考える)、さらには利益衡量・価値判断による解釈(どのような価値をどのような価値より優先させるかを考える)等により、明らかにされることになります。

ひとつの参考情報に過ぎませんが、日本国憲法の起草にあたったGHQの担当者達は、「戦争の放棄と戦力の不保持」をたんなるマニフェスト(政治的宣言)にすぎず、法規範としての 身分を持たないと考えていたようです。以下は、長谷部『憲法(第五版)』からの引用です。

憲法9条の原型は、占領軍総司令官であったダグラス・マッカーサーが1946年2月、総司令部独自の新憲法の起草を決意した際に、草案に盛り込むべき基本原則として民政局のスタッフに示したいわゆるマッカーサー・ノートの第二原則である。それは「国権の発動たる戦争は廃止する。日本は紛争解決の手段としての戦争、さらに自己の安全を保持する手段としての戦争をも放棄する。日本はその防衛と保護 を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない」とする。

この第二原則は、起草作業を主として担当した総司令部民政局のスタッフには余りに も理想主義的であると考えられたため、彼らの用意した第一案では、この原則は憲法の本文ではなく前文に置かれ、また自衛のための武力の行使あるいは武力による威嚇の可能性を残す文案に改められた。

しかし、このような「法律家」的考慮は、戦争放棄の強調を求めるマッカーサーの完全な了解を得ることができず、自衛のための武力行使の可能性は維持されたが、彼の強い主張で、戦争放棄および戦力不保持の原則は、最終的な総司令部案では本文に移 され、それを受けた日本政府の憲法草案、そして確定した日本国憲法でも本文に置かれている。

【おわりに】ほんとうの対立点はどこにあるのか

護憲派と改憲派、あるいは安全保障関連法案を支持する立場とこれを違憲だとする立場。これらのほんとうの対立点は、どこにあるのか。どうも憲法の文理解釈でも、憲法学会の通説の尊重の度合いでもなさそうです。わが国の政府(それを監視するわが国の有権者団)と、周辺諸国の政治指導者との、いずれをより信頼するか(または、いずれがより信頼できないか)。意識的にせよ、無意識的にせよ、両者を分けているのは、実はそこなのではないか、とひそかに思っているところです。

憲法概説書