戦前にもあった『護憲運動』

さる3月、民主党の枝野幸男幹事長が衆院予算委員会において、かつての「統帥権干犯問題」について安倍晋三首相らの見解を質しました。

統帥権干犯問題で国策誤り、安倍首相「その通り」

戦前に軍部の台頭を招いたとされる統帥権干犯問題などの歴史認識をめぐり、民主党の枝野幸男幹事長が3日の衆院予算委員会で、安倍晋三首相らの見解をただした。
枝野氏が「統帥権干犯問題と、(陸・海相を現役軍人のみから選任する)軍部大臣現役武官制で、我が国が国策を誤った。教訓にすべきだと思うか」などと質問。首相は「その通りだと思う」と述べた。(中略)統帥権干犯問題は、1930年にロンドン海軍軍縮条約に調印した浜口雄幸内閣に対し、軍の指揮権を握る天皇の統帥権を犯すものだと軍部などが批判。政党政治が衰退する一因となった。

(出所:2015年3月4日朝日新聞デジタル)

さて、この「統帥権干犯問題」とは何でしょうか。じつは、これこそわが国を破滅的な戦争へと追いやったといってもいい、戦前の『護憲運動』のテーマでした。

天皇大権のひとつ「統帥権」とは

大日本帝国憲法は、主権者である天皇に「天皇大権」と呼ばれる特別の権能を認めていました。「天皇大権」は通常、国務大権・統帥大権・皇室大権の三つの権能を指すとされています。

このうち、統帥大権は、大日本帝国憲法第11条を根拠条文とするもので、その内容は、部隊の組織と編制、出兵と撤兵の命令、戦略の決定、軍事作戦の立案や指揮命令など、帝国陸海軍の軍令・軍政両面にわたる、広い権能を指していました。

大日本帝国憲法第11条  天皇は陸海軍を統帥す

大日本帝国憲法第12条  天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む

「軍縮」という時代背景

大正時代の終わり、わが国はきわめて画期的な改革に手をつけました。「軍縮」です。

第1次世界大戦後、軍縮が世界的トレンドとなるなか、日本はワシントン海軍軍縮会議(大正11年)で、戦艦など主力艦について、対米英六割まで削減することを約しました。そこには、列強に伍して建艦競争を続けることは、わが国財政を破綻させかねないという問題意識と、いざ米英と戦火を交えることになった場合、戦力比率6割は互角に戦えるぎりぎりのラインだという認識がありました。

その8年後、列強は主力艦(戦艦・航空母艦等)に関する制限にとどまった反省に立ち、ロンドン海軍軍縮会議にて巡洋艦以下の補助艦艇の建造数に関しても制限を加えるべく協議することとなります。

当時、海軍部内では、主力艦が対米英6割に抑えられている以上、補助艦については対米英7割が妥協できるギリギリの線であると考えられていたといわれます。浜口内閣は、交渉の結果ほぼ対米英7割ライン(69.75%)で米英の譲歩を引き出し、条約を批准しました。

「政争の具」にされる憲法論争

ロンドン会議の結果は、浜口内閣がかねて緊縮財政・軍縮を積極的に推進しており(注)、井上準之助蔵相が海軍予算の大幅削減にも手を付けていたこととも相俟って、「艦隊派」と呼ばれる一派(条約に強い不満を持つ海軍軍人ら)を産む原因になりました。

このとき、一部マスコミや野党・立憲政友会から沸き起こったのが、「統帥権干犯」の声だったのです。

彼らが持ちだしたのは、政府が軍令(=統帥)事項である兵力量を天皇(=統帥部)の承諾無しに決めたのは、大日本帝国憲法第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(統帥大権)を侵すものであり、憲法違反だという理屈でした。これが「統帥権干犯問題」と呼ばれる憲法論争です。

理念と現実を取り違えた悲劇

もともと起草者は、わずか十文字からなる大日本帝国憲法第11条が、国家を揺るがし、行政権の主体(内閣)を機能不全に陥らせる事態を生むことを予期していなかったかもしれません。天皇の軍隊(皇軍)は天皇親率というたてまえと、それを閣僚や軍部の高官らが輔弼して実務に当たる、という実務の現実は、今日の私には何ら矛盾がないように見えます。

しかしながら、これを政府を攻撃する口実として持ちだしたことが、結局は政党政治そのものを崩壊させてしまいました。この後、軍部はことあるごとに「統帥権干犯」の理屈を持ち出すようになり、もはや政府も議会も、軍事をコントロールする術を失ってしまったからです。

「統帥権干犯問題」が軍部独走のきっかけをつくったことは事実ですが、銘記すべきは、「軍部は、勝手に独走したのではなく、敵を攻撃するためには手段を選ばず、反対のために反対を叫ぶ政党やマスコミが独走を許した」という点だと私自身は思っています。

(注)浜口雄幸首相と井上準之助蔵相の名コンビの活躍ぶりと悲劇的な最期は、城山三郎『男子の本懐』が見事に活写しています。

 

城山三郎「男子の本懐」