ピース又吉さんと考える「共感の時代」

又吉さんが読書によって身につけたもの

人気お笑いコンビ・ピース又吉直樹さんの芥川賞受賞作『火花』は、209万部の大ベストセラーだそうです。

彼が読書家であることは広く知られています。私は、NHK「オイコノミア」などで見る彼に、かねて「読書によって思惟する力を身につけた人」という印象を抱いていました。

「読書によって思惟する力を身につけた人」とは、もちろん物知りであるとか、文学に造詣が深いというのとは違います。自分の理解の及ばない事柄、納得のいかない事柄に対峙し、そこから何らかのインプリケーションを引き出す術を知っている、とでも言い換えられるでしょうか。

共感が価値基準のいちばん最初にある時代

まだ『火花』が芥川賞を受賞する前のこと。又吉さんはその朝、『サワコの朝』(TBS系)のゲストとして登場しました。当然、話題は『火花』に集中します。

この中で、あらためて彼の「読書によって思惟する力を身につけた人」ぶりを印象づけられたやりとりがありました。

司会の阿川佐和子さんが「登場人物にとっても共感できた、という読者の声が多いですね?」と水を向けたとき、又吉さんは言葉を選びつつ、こう応じたのです。

「私は共感できた」「私は共感できなかった」というのが価値基準のいちばん最初にある気がして、そういう風潮にいまひとつ納得できない。

共感できないものに触れる意義とは

彼の言わんとするところは、よく理解できます。

ドストエフスキー『罪と罰』のラスコーリニコフ。ブロンテ『嵐が丘』のヒースクリフ。カミュ『異邦人』のムルソー。小説の中の人物たちは、必ずしも理解や感情移入できるものばかりではありません。

しかし、異質なものに触れ、違いの理由を推しはかり、違和感の正体を知ろうとする、それこそ「思索」であり、思考を強化するものだと私は思います。

「共感」は時代のキーワードであり、否定しても仕方がありませんが、そもそも共感を第一義とし、共感できないものから目を背ける人々のインディビジュアルバックグラウンドに何があるのか、そこに目を向けたいと思うのです。

共感できないものから目を背けたくなるのはなぜか

アンガー・マネジメントの領域に、「コア・ビリーブ」という考え方があるそうです。「コア・ビリーブ」とは、その人が普段信じているものや、判断の基準にしているもの

たとえば、「僕の行為を咎める人は、僕のことが嫌いなんだ」というコア・ビリーブがある人は、「もっと迅速に要領よく報告したまえ」と上司に注意されると、「僕はこの上司に睨まれている」と相手の言動を解釈するときにエラーが起こる、というわけです。

この「コア・ビリーブ」は、共感できないものから目を背けたくなる気持ちを理解する有力なヒントではないか、と思っています。もしかしたら、その気持ちの奥底には、「自分の考えと違う思想にふれると自我が脅かされる」「違った考えを持つものは敵」「違う考えから得られるものなどない」といったコア・ビリーブがあるのかもしれません。

たしかに、多様な意見の全く出ない、まるでTBSの『サンデーモーニング』のような社会があったとしたら、異論反論にこころ騒ぐこともなく、精神的に平穏に過ごせるでしょう。

でも、それは本当に良いことでしょうか。

【追記】

共感できないものから目を背ける人々は、「異なる考えや批判によって自説が強化された体験」を持たないのではないか、ということに思い当たりました。そうした体験があると、「心地良くない異説に耳を傾けることには何らかのご利益がある」というコア・ビリーブが生まれるのかもしれません。

又吉直樹「火花」